イワサワ タツヒコ
  岩澤 龍彦
   所属   専修大学  文学部
   職種   助教
発表年月日 2022/10/16
発表テーマ 「マイヤー・バウハウスは政党政治的だったのか?」——マイヤー解任以後のドイツ・ソ連におけるマイヤー・バウハウスをめぐる言説について
会議名 第73回美学会全国大会
主催者 美学会
学会区分 全国学会
発表形式 口頭(一般)
国名 日本
開催地名 京都工芸繊維大学
概要 本発表の目的は、マイヤー解任以後のドイツ、ソ連におけるマイヤー・バウハウスをめぐる言説を整理し、それがどのように映ったのかを検討し、標題の問いが有効かどうかを考察することにある。

マイヤー・バウハウスの政党政治性は、マイヤーがバウハウスを追放された直後から問題であった。マイヤーの公開状(1930年)は即時解任の不適当さを訴えたものであったが、その訴状ではマイヤーがバウハウスの共産化を抑止しようと努めていたことがわかる。彼の訴えによれば、マイヤーはバウハウスの学生が組織した共産主義グループを解散させ、国際労働者支援への募金は個人的なものでしかなく、それが政治的であったとしてもそれは政党政治的なものではなく、文化政治的なものでしかなかった。

しかしマイヤーの訴えはバウハウスをめぐるその後の言説において無効化されてしまう。なぜならば、フィリップ・オズヴァルトが指摘するように、『ウルム』誌上でグロピウスとマルドナードとの間で展開された文通(1963年)によってマイヤーの訴えは事実上、覆され、その後のバウハウス受容が方向づけられたからである。グロピウスはその文通の中で、バウハウスはいかなる政党とも同一視されてはならないとの立場に自身は立ったが、マイヤーは政治的唯物論によってバウハウスの理念を破壊し、その活動を座礁させた、とまで述べる。そして、マイヤーはバウハウスの共産化の真犯人と仕立て上げられ、バウハウスをめぐる言説において疎まれる傾向が形成されていった。

今日の研究では上の二つのテキストを主として、近年のマイヤー再評価を背景に、グロピウスの操作が見直され、マイヤーの言い分も認められるようになったが、マイヤーが渡ソ後に組織したバウハウス展に際して著したテキスト(1931年)と同展に寄せたモルドヴィノフによるバウハウス評(1931年)をみると、その論調は必ずしも正当ではないことが判明する。なぜならば、マイヤー自身が同展でマイヤー・バウハウスを「社会主義建築の教育機関としての「赤いバウハウス」」として提示しようとしたことこそが、それ相応に政党政治的な活動がマイヤー・バウハウスで行われていたことを示しているからである。

しかしながら、このマイヤーによる演出は失敗に終わった。なぜならば、マイヤーの提示した「赤いバウハウス」はモルドヴィノフにとってはイデオロギーの点で不十分であり、マイヤー・バウハウスならびにマイヤーの建築観は当時のソ連建築界にとっては芸術としての建築が欠如していたために不十分なものと映ったからである。

以上のことから、バウハウスの神話化の犠牲となったマイヤーであるが、公開状での政治性の否認とは矛盾する彼なりのバウハウスの演出もまた失敗していたと言わざるをえないだろう。そして、こうした経緯をふまえるならば、マイヤー・バウハウスが政治的であったかどうかを問うことは生産的な問いとはいえないであろう。
researchmap用URL https://bigakukai073.bigakukai.jp/s_presentation/235/